
- キリスト教とは -
◆最大の問題
歴史上、人類は自らの不道徳性によって多くの害を受けて来ました。
その不道徳性は、大なり小なりすべての人に宿っていて、どれほどの教育によっても不道徳性は絶やすことができず、世代を越えて世界に蔓延してきました。
それはギリシアの哲人らを悩ませ、ゴータマ・シッダールタが考慮の中心に据えたものでもありました。
人々の社会は、法律を定め、公権力を用いて人々の不道徳性を抑え込もうとして来ましたが、それを消し去ることはできず、大半の人々は解決する事のない不道徳性をむしろ当然と見なしています。
人間が一定の善を持ちながらも不道徳であり、争いを止められない原因について、聖書は人間に倫理に欠陥があることを指摘し、それを『罪』と呼びます。
その『罪』とは、個人が犯す悪行や不義理の一つ一つを指すのではなく、人類が普遍的に持つ悪に向かおうとする不道徳性、利己的で貪欲な傾向を指しています。(ヤコブ4:1-3)
◆『罪』のための政治
この『罪』という倫理上の欠陥は、人間社会に利己的な精神を推進し、世界を非常に住み難いものとしています。
人々は互いの貪欲に対処するために「法」と「権力」という、仮の善悪判断と、有無を言わさぬ暴力とで作られた壁を互いの間に存在させなければなりません。
それでも、法律や権力が優れていても、それは根深く人に巣食う倫理上の欠陥である『罪』への対症療法に過ぎないので、社会から貪欲も悪行も無くすことはけっしてできません。
更に『罪』は人間と創造神とを隔てる障碍ともなっているので、人は自らの存在理由や人生の意味などについて問い掛け、哲学や宗教が求められてきました。
しかし、世界を創造した神は、初めから『罪』を持つ者として人間を創ったのではありません。人間は神を度外視して生きることを選んだのであり、人が『罪』を負っていることは、この世を幾らか見るだけでも明らかなことです。
創造されたばかりの最初の人アダムがこの『罪』に陥ったので、今日まで誰もこの『罪』という不道徳性を免れることはありませんでした。(ローマ5:12)
人生が空しくされているのは、人間と創造者との間に断絶があり、意思の疎通が妨げられているためであることを聖書は示します。(ローマ8:20-21)
◆『罪』のための宗教
人は自分で生まれようとしてこの世に来るわけではありません。
そこで人生の意味を尋ねますが、創造者である聖なる神とは『罪』によって隔てられているので、その答えを得ることはできずにいます。そこで人々は宗教を通してその答えを求めますが、様々な宗教に一致なく、各個人は答えと思われることを得心するほかありません。
わたしたちにはどうしても分からない難問が幾つかあります。
例えれば、人は死後にどうなるのかを知ることができず、将来に何が起こるのかを正確に知ることもできません。これらは人間のあらゆる知覚能力を超越した事柄となっています。
そこに様々な宗教が、様々に異なる教えを述べる余地があります。
また、自分がなぜ存在するのかも分かりません。これについては19世紀以降、「進化論」が恰も答えを与えるかのようにされてきました。
しかし神は、このように神と人間が『罪』によって隔たっているので、『神と人との仲介者』を起こし、その任命された者「キリスト」を人々の間に遣わされ、その仲介によって、人々が『罪』から清められ、創造の神との関係を取り戻すよう取り計らわれました。
それでも神は『罪』ある人をそのまま赦すのではなく、神との関わりを心から望む人がキリストへの信仰を抱くことで『罪』を赦されるようにされたのであり、神との関係を取り戻すには信仰を抱くことは必須です。
しかし、神は無理強いをしてご自分を人々に受け入れさせることはしません。ですから、科学では神を人格的に理解することも、神存在を証明することさえできていません。
しかし、将来『罪』から清められた人は、祈りの必要もなくなり、エデンの園の時のように、自由に神と会話する様が聖書に描かれています。そこでは神と人をつなぐ「宗教」も必要が無くなります。
◆『罪』を取り去る神の救い
それでも神は、人間から『罪』を除き、自らの創造物としての栄光ある姿に復帰させることを意図されました。
非常に古いシュメール王朝時代の人アブラハムに、その子孫を通してその救いをもたらすことを告げています。(創世記22:18)
アブラハムの子孫は増えてイスラエル民族となり、神の律法を守ることによって、世界の人々の祝福となる『聖なる民』とされるという契約が、預言者モーセを仲介に締結されました。
彼らイスラエルに与えられた崇拝方式は、『罪の贖い』として動物の犠牲が求められていましたが、それはキリストの犠牲を予告するものでありました。
その血統上の子孫イスラエル民族からキリストが現れ、すべての人の『罪』の酬いを一身に引き受け、罪の赦しの用意を整えました。
そこでキリストは、自らの『罪』を認めて悔いる人に救いをもたらします。(ローマ12:18)
しかし、人が『罪』の存在を認めるだけでは悔いを示すには十分とは言えません。
また、聖書を知り、その教えを理解しても、それが『罪』の赦しにはなりません。
◆『罪』の対極にある『愛』
この『罪』をもたらす貪欲は利己心に発するものであり、その対極を成すものが『愛』であると聖書は教え『愛は他者に悪を行わず、法を全うするものである』と記されます。(ローマ13:10)
そこで、自らを犠牲として差し出したキリストの精紳に倣い、利他的に生きるよう励み、自らの『罪』を悔いる人が『愛』を表すように努めることは今でもできることです。(ヨハネ13:34/コリント第二5:15)
人は自ら『罪』を無くすことはできませんが悔いることはできます。
その人は『愛』に努めることで、将来に『罪』を取り去るという創造の神の意図に賛同し、そのための犠牲を捧げたキリストに倣うことができるのです。
キリストは自らの犠牲の価値をそのような人に与えて、神の前に赦しを得させます。これがキリストによる『罪』の贖い(あがない)と呼ばれます。
『罪』の贖いを得て、初めて人は神の創造のままの栄光ある姿に復帰することができ、そこでは病気も老化もなく、真に利他的な世界での永遠の命に入る希望が差し伸べられています。
◆罪から救う『神の王国』
以上がキリスト教の骨子であり、神がこの計画(経綸)をどのように進めてこられたかを記しているのが聖書と呼ばれている書物です。
聖書は人生の指南書でも、成功への導きの書でもありません。キリストや弟子らが命を賭したのには、人類の救出が関わっています。
この書には、エデンの園以来の人間の救いに関わる神の歩みや預言が記され、その理解を深めるに応じて、神の意図が人間にとって究極的価値のあることを悟ることになるでしょう。
キリストによる『罪』の贖いを行うのが『神の王国』であり、それがイエス・キリストの宣教の主題でしたが、この『王国』は、この世が終わる終末に到来することを聖書は知らせています。
イエスは人々に祈りを教えましたが、『王国が来ますように』と求めることを、生活の必要物を願う以前に挙げて、その重要性を示されました。それは心の中ものではなく、ご利益や成功を願うことでもありません。『王国』は実際に到来するキリストたちの支配です。
また、中世以来今日まで『神の王国』は「天国」と誤解されて来ました。
しかし、キリスト教を知る上で「天国」ではない『天の王国』の理解はどうしても必要です。
それは早くもエデンの園で予告されており、そこでは『女の裔』と呼ばれていました。それが何者かを巡って聖書は展開してゆきます。
◆再来するキリストと聖霊の奇跡
キリストは地上を去るに当たり、再び来られ聖霊を与えること、聖霊により世界中が神からの言葉を聞くこと、それがこの世の終末となることを予告していました。
しかし、キリストの再来は『雲と共に』、つまり目に見えないものとなるので、人々は聖霊の奇跡を通して信仰を働かせるか否かが試されることになります。
キリストの臨在では、奇跡を行う『聖霊』が地上に降り、誰も論駁のできない神からの言葉と奇跡が行われることになります。
この時期が到来することを願って、信徒は年毎の『主の晩餐』を行います。
それはユダヤ暦に従い、古代にイスラエルがエジプトの奴隷から解放された夜に相当し、イエス・キリストの最後の晩餐に当たります。
それが春先のニサン月の十四日であるので、その習慣を守った原始キリスト教は十四日派と呼ばれていました。
「新十四日派」もこの習慣を守り、原始キリスト教の姿を現代に再興することを主旨とします。
現代に於けるキリスト教徒の主要な務めは、『聖霊』の再降下を願い、キリストの再来を待つことであると新十四日派は理解します。
「新十四日派」
2026年3月31日の夜
<ユダヤ暦5786年ニサン14日>
基礎理解
これまでに書かれたブログにリンク
人はなぜ生きるか
人間の欠陥
政治と宗教の存在
キリスト教の最終目的
魂から人生を見る.
原始キリスト教
![]()
「神の象り」の意味
聖霊とは何か
仲介者キリスト![]()
聖書というもの![]()
神は人の何を裁くか![]()
聖なる者たち
この世の終り![]()
千年の王国音声ファイルにはVoiceGatを使用e