原始キリスト教 新十四日派

聖書の要約Doctrine

1.創造の業の完遂という神の目的

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1. 最初の人アダムを創造した神は、人間を「神の象り」に創りました。それは、人間が神と同じように自由な意思を持つことを表します。そこで神は人間と人格的な関係を望み、自ら忠節な愛を示し、また人にも望みます。それがエデンの園の中央に植えられた二本の木の意味するところでした。

一本は「善悪を知る木」、もう一本は「永遠の命の木」と呼ばれ、それは人と神の関係に関わる選択となりました。『神の象り』である人間を自らのように尊重する神は、この選択を人の自由に委ね、強制も監視もされません。そこで神との関係性が問われます。その焦点は『愛によって神と結ばれる』かどうかにあります。

天使のひとりは、この点で自分を愛することを選択し、神から離れます。その者は逆らう者という意味で『サタン』と呼ばれるようになりました。そうして神の創造界に不調和が生じ始めます。

アダムは、天使であったサタンが操る「蛇」の強い誘惑を受け、禁じられていた「善悪を知る木」の実を取って食してしまいました。アダムは神よりも妻であるエヴァとの関係を優先します。
こうして人は創造者をないがしろにして倫理上に欠陥を負うものとなり、その子孫に不道徳な傾向が遺伝してゆきましたが、それはこの世にはっきりと見て取れます。

この不倫理性によって人類は大きな害を受けており、人々は隣人と問題なく過ごすことができません。世の害悪の大半は人間自身の倫理上の欠陥に原因があります。その傾向は聖書では『罪』と呼ばれ、そのために人間は皆、神の創造物として不完全になり『神の子』の栄光から脱落しています。

しかし、この人間の状態は神の創造の意図ではなく、今の不調和な世界も神の意図するものではありません。
そこで神は人間からこの倫理上の欠陥である「罪」を除き、創造された当初の人間の状態に戻すこと、つまり「贖罪」(しょくざい)を行われることを計画します。

そのために神はイエス・キリストを用います。
人類全体から「罪」取り除いて、世界を変えるのが「神の王国」の役割であり、その主要な王にはイエス・キリストが即位します。




2.「聖なる国民」イスラエル

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2.神は早くもエデンの園で、人間が陥った問題の解決法を予告しました。それが『女の裔』と呼ばれる何者かのことであり、聖書はこの『女の裔』が誰であるかを巡って数千年を越える永きに亘って書き継がれました。その『裔』つまり子孫によってサタンが創造界にもたらした害悪はサタンもろともに除かれることになります。

やがて、その『裔』はシュメール時代の人アブラハムの子孫の中から現れること、また彼の子孫にパレスチナの土地を与えることを神はアブラハムに約束します。
やがて、その家督を持った子孫はエジプトで一民族を構成するほどに増えイスラエル人と呼ばれます。しかし、エジプトの王朝の交代によって、彼らは奴隷身分に落されてしまいます。

この民族をエジプトでの隷属状態から「約束の地」パレスチナに導き出すために用いられたのが預言者モーセでした。
神は、このモーセを介してイスラエル民族と契約を結びます。
それは、神が与える『律法』を守るなら、イスラエルは『聖なる国民、王なる祭司の民』となるという契約であったので、これは律法契約と呼ばれます。その律法は罪の許しのためには犠牲が必要であることを動物の捧げ物によって示していました。
神は契約の証しとして「十戒」を記した二枚の石板を収めた『契約の箱』を造らせ、そこに自らの『名を置き』、臨御の証しを与えてこられました。

しかし、イスラエルはこの律法契約を守らず、遂にパレスチナを追われてバビロンに捕囚となります。
それでも神はパレスチナに幾らかの人々を帰還させ、神殿喪失から七十年が経過すると新たな神殿を建立させますが『契約の箱』は戻りません。
しかし、捕囚時代の前から、律法契約に代る「新しい契約」とそれを司る「メシア」の到来を、神は預言者たちを通して予告していました。


    

3.キリストの「新しい契約」

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3.パレスチナに帰った人々はユダヤ人と呼ばれるようになり、前五世紀の預言者マラキを最後に、旧約聖書はそれ以上書き加えられなくなります。

それからおよそ四百年が過ぎると、預言者の姿をした人物がヨルダン川でユダヤ人に『悔い改めの浸礼』を施し始めます。人々は久しぶりの預言者の到来を見て、この人が約束されたメシアではないかと噂しますが、その人「バプテスト(浸礼者)のヨハネ」はそれを否定して、自分の後に来る方がメシアであり、その方がユダヤ人らに聖霊と火でバプテスマを施すことになると告げます。

そこにナザレ村から三十歳ほどのイエスという人物が訪ねてきます。ヨハネが水でバプテスマを施すと、この人には聖霊が降り、ヨハネはこの人をメシアとしてユダヤ人に示します。
それからイエスはメシアとしての活動を始め、多くの奇跡を行って人々の病気を癒し、『神の王国が近付いた』とユダヤ人に知らせ始めます。神はイエスに奇跡の力を与え、彼がキリストであることを証します。

しかし、メシアを受入れたユダヤ人は少なく、ここでもイスラエルの多くの人々は『新しい契約』に入ることを拒むばかりか、メシアをローマの権力に渡して無理に処刑させてしまいました。
その結果、メシアを受入れた幾らかのユダヤ人は「新しい契約」に入って聖霊が注がれるようになり、その人々もメシアのような奇跡の業を行うようにされましたが、一方で多くのユダヤ人はそれを妬みメシアの弟子らをも迫害するようになります。


4.イスラエルの裁き

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4.そこで弟子たちはユダヤを後にして世界に広がって行き、メシア=キリストによる世界の救いを知らせ、聖霊を受ける仲間を諸国民からも集めるようになります。
彼らは血統のイスラエルとは対照的に『神のイスラエル』と呼ばれます。

キリストと彼ら聖霊を注がれた者らが、アブラハムに約束された、世界の人々を『罪』というサタンの害から救う『アブラハムの子孫』であり、律法契約が目指した『聖なる国民、王なる祭司の民』となる者らで、新約聖書はこれを『聖なる者たち』と呼びます。彼らが『神の王国』、また『天の神殿』を構成する人々であり、天でキリストと共に『王また祭司』となることを目標にします。
つまり、この人々がエデンの園で預言された『女の裔』となります。

彼らはキリストを仲介に「新しい契約」に入ったことを、その注がれた聖霊による奇跡の業と教理の知識によって示すことができました。新約聖書が書かれた時代には、キリスト教徒の集まりのほとんど人が聖霊を受けた『聖なる者』で占められていたことが、その記述から分かります。彼らはキリストの犠牲による「新しい契約」に入ることで、人類全体より早くアダムからの『罪』が仮赦免された状態に入るので『神の子』また『初穂』とされます。

他方、キリストを退けたユダヤの世代はローマ軍に攻撃され『火のバプテスマ』を受けることになりました。
エルサレムと神殿を失い、流浪の民となって「約束の地」から離れて行きました。神殿喪失の以降は、神の名が何と発音されるかも忘れ去られてしまいます。キリストの弟子となった人々と、そうしなかったユダヤ人の違いについて、バプテストのヨハネは小麦の粒と籾殻に例えていました。


    

5.キリスト教を創始した『聖霊』

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5.その一方で、奇跡の『聖霊』を注がれていた『聖なる者』である使徒とユダヤ人の弟子らによって新約聖書が書かれ始め、最後の使徒ヨハネの著作が聖なる書に収められた文書の最後となりました。
『聖霊』の奇跡は彼らに働いて、外国語を話させ、預言を語らせ、使徒たちには病気を癒したり、教えの奥義を理解させていました。

しかし、聖霊の賜物の奇跡も終わる時代が訪れます。『聖霊』が新たには注がれなくなり、世代が進むに従い『聖なる者』が減ってゆき、ついに地上から絶えます。それはおそらく第二世紀半ばであったでしょう。

『聖霊』を失ったキリスト教界は急速に本来の教えから離れ、ギリシア文化(ヘレニズム)やさまざまな異教の影響に曝され、ニケア公会議のあった第四世紀以降はすっかりとその姿を変えてしまいました。
今日、見られるキリスト教のほとんどは、この異教化したキリスト教を継承しているので天国と地獄を信じ、三位一体の神を教え、刑具であった十字架を象徴としています。これらは『聖霊』がキリスト教徒を導いていた時代にはキリスト教のものではありませんでした。

しかし、イエスは「世の終り」の時期に弟子らが再び『聖霊』を受けることを予告しています。
彼らは為政者の前に引き出されますが、『聖霊』が彼らに臨み誰も論駁できない言葉を語り、それは諸国民への証しともなるというのです。ですが、このような弟子の姿を世界はまだ見ていません。しかし、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が再び現れるとき、原始キリスト教が回復され、人々を救う『神の名』も示されるでしょう。


    

6.『聖霊』がもたらす終末

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6.「世の終わり」の時期は未だ到来していませんが、そのときには『聖霊』を受けるキリストの弟子が再び現れ、『神の王国』の王となるべきキリストの再臨と、その支配に従うべきことをこの世に明らかにするので、はっきりと「世の終わり」の時期に入ったことを世界は知ることになります。

それは遠い昔にアブラハムに約束された『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』という神の言葉が、キリストの治める『神の王国』の到来によっていよいよ実現を迎える時となります。

そこで「新十四日派」は『聖霊』が再び降ることを待ち望み、『神の王国』の到来に希望を託します。『神の王国』は心に中に在るものではなく、この世に到来するものであって、この世の政治に取って代わる現実の支配であるというのが、最後の使徒ヨハネの指導を受けた第二世紀小アジアのキリスト教徒の信仰でした。
彼らの多くは「十四日派」と呼ばれましたが、それは「主の晩餐」を毎年のユダヤ暦ニサン14日に守ったからです。それは古代にモーセに率いられたイスラエルがエジプト出る前の晩であり、キリストの最後の晩でもありました。

人々は千年続くという『神の王国』によって、キリストの贖いを受けて『罪』の影響から遂に解放され、この世の苦しみは過去のものとなり、神の是認された創造物としての輝かしい姿を得ることになるでしょう。それがエデン以来変わらぬ神の意志であるからです。

創造の神は、千年の後にあらゆる死者を復活させ、自ら全ての人を最終的に裁き、愛ある人々を『神の子』と認め永遠の命を与え、他方でサタンと利己的な道を敢えて選ぶ者らを除き、こうして創造の意図のすべてが成し遂げられることになります。



7.願い求められるべき『聖霊』

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7.キリスト・イエスは『聖霊』について、時が来れば自動的に与えられるものであるとは言われず、願い求めるべきもので、『求め続け、敲き続けるなら・・聖霊が与えられる』と言われました。

その『聖霊は』キリストの犠牲によって下賜されるもので、年毎の『主の死を記念する』『主の晩餐』は聖霊を注がれる人々が、キリスト・イエスの仲介によって『新しい契約』に入ることで神の前に仮の義を得ることで、『神の子』とされ、キリストの兄弟として現れることを象徴します。

イエス・キリストの最後の晩餐は、ユダヤ暦でニサンの月の14日でありました。更に古代の出エジプトの同じ晩に子羊が屠られ、そのために民の長子が贖われ、民は隷属からの自由を得ています。
そして、イエスは『世の罪を取り去る神の子羊』として同じ日に犠牲となるにあたり、使徒らに記念として無酵母パンと赤葡萄酒を採る『主の晩餐』の儀式を行ってゆくように命じられました。

この記念を教会では復活の祝いに変えて「イースター」として祝うようになっていますが、古代の十四日派はユダヤの暦に習い、ニサン14日に『主の晩餐』を守っていましたが、教会の勢力に押されて次第に少なくなり、8世紀頃に途絶えたとされています。

キリスト教において唯一定められたこの『主の晩餐』という定期儀礼は、出エジプトの解放と初子の贖いを踏まえたキリストの死と解放を象徴するものであり、キリストの犠牲によって人類に先立って『神の子』とされ初子となる人々の『新しい契約』に深く関わりをもつものです。聖霊を受ける人々を通して神の言葉が世界に知らされ、信仰を働かせる人々は、労役と空しい人生を強制する『この世』への隷属から救われることになります。



そこで、こうした神の意志に共感し、地上に再び聖霊が降ることを願う人々は、年毎のニサン14日の夜に『主の晩餐』を整えて『聖なる者ら』の現れを待ち望んでいることを示します。
その人々が現れるときには、キリストはこの世に対して再臨をしていることが明らかになり、世界は終末に入ったことになります。そうなれば出エジプトの時のように人類の救出は目前に迫っています。

聖霊の言葉を聞く人々は神の王国の支配に入る機会を得ます。そこには神の祝福とその栄光を反映する人類が在り、これまでのどんな人も味わったことのない幸いを受けるでしょう。
その時はそう遠くないと言える理由があります。聖霊はまだ降らず『新しい契約』にないとしても『主の晩餐』を行う人々が存在することは、地上に『聖霊』を待ち望む信仰と願いがあることを神に示すことになるでしょう。






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Neo Quartodecimanism


2024年 4月 21日の夜
<ユダヤ暦5783年ニサン14日>