聖霊と聖徒 |
現在構想中につき 表題も表紙も未定 聖書全巻が指し示す神の経綸を担う『聖なる者』を 創世記から黙示録へと追う 聖徒理解がどれほど重要であるのか また、その理解を欠くことにどれほどの不利益があるかを検証し、聖書の存在意義、キリストの犠牲の成し遂げた事柄、ダヴィドの王権が示すもの、律法の祭司制度の対型、律法の祭りに込められた予型、族長たちの活動の意義、アブラハム契約とイサク献供の意味、エデンの『女の裔』へと、神の経綸の目的を辿る。 諸教会はこの聖書全体が示す偉大な神の悠久の歩みに対してどう応じることになるかの問題提起の書。 |
バビロン捕囚に至るイスラエルとユダの王国の末期から、アッシリアとバビロニアに対する敗北と捕囚期、そして時代の潮流の変化の中でイスラエル民族が帰還してゆく過程は、旧約聖書の後半を占める一大叙事詩となっている。 そこに示された神の強靭な意志により、一国民として再起不能にさえ見える状況からの回復は、そのことだけ取り上げても驚嘆すべき奇跡の業であった。 しかし、捕囚と帰還は単に紀元前六世紀までに終わったことではないと聖書そのものが随所で明かしており、それは将来への展望をさえ開くものとなっている。 本書は、古代にイスラエル民族が経験し、予告された言葉の数々から何が例証されるかを示し、読者の便宜を図って年表を付帯してその順序を整理している。 |
聖書がただ人々を敬虔な善人とし、義認やご利益を与え、信者を最終的に天国や楽園の何寧に導くことを目的にする書物であるとするならば、その内容に込められた終末と裁きの日を読まないことになり、それは再臨すると予告されたキリストの姿をも見紛う危険を持つことへの警告を行うのが本書の役割となろう。 旧新の聖書は書かれた言語は違えども、クモの巣のように相互に張られた内容のリンクを丁寧に辿りだすとき、そこにどのような世界が広がり、また終末とされる時期での各個人の置かれる立場はどのようなものであるのか。 そこに聖書の聖書たる所以があり、その内容は既存のキリスト教の枠から飛び根けてしまうほどのものとなっている。 本書が明かすものはその畏怖すべき終末に進行する事態の素描のようなものである。 |